私は88年に入社して、最初は清水の僻地の支店に配属された。普通、人事部(仮称)から、お達しがあって、「2年間は、店内の仕事に従事させ、営業店の仕事の概要を把握させること」になっていた。ところが私の行った営業店では、集金の嘱託のおじいさんが発病し、急遽、退職することになった。その穴を誰が埋めるかが問題になった。外周りの担当さんは、これ以上の訪問件数は無理ということになった。そこで駆り出されたのが「のぶ」であった。
ゴールデンウイークの後から、のぶは原付バイクに乗るはめになった。来る日も来る日も集金であった。まあ嘱託さんがやっていた仕事である。割合簡単な仕事であった。
担当が、じーさんからピチピチに代わりったのだから「入れ食い状態であった」。公民館に行けば、「あんたはどこの大学でたの?」と聞かれ、「早稲田です」と答えれば、「いい子がいるんだけど写真を見ていかない?」と切り出されたりした。お肉屋さんに行けば、「うちの娘はまだ高校生で1人娘だけど、スポーツやってて気がらがいいよ。婿にならないか?」などとそんなのばっかし。
でも、毎日毎日集金暮らし。何のために大学を出たのか…と思い始めてきた。当時はバブルだったので職ならごまんとあった。2年目、会社の方針で「宅建主任試験」の受験が奨励された。私は、これを逃す手はないと受験を志した。それから朝1時間は、お客さんの喫茶店でモーニングを食べながら勉強した。もちろん合格。
喫茶店のおばさんからは、「あなた、ぶらぶらしてるけど営業成績大丈夫?」と心配される程になった。しばらくして、「成績が心配だし、あなたが毎日一番お金を落としてくれているからあなたにお金を任せることにしたよ」と副産物も生まれた。
もう一つさぼれる場所を考えた。それは店外ATMコーナー(営業店から2キロぐらい離れた所にあった)の「裏側」だった。当時はATMの機械の精度がいまいちで、よく紙幣詰まりが発生した。すると店内のブザーがなり、内勤役席から「のぶちゃん直してきてよ~」と相成る。「それでは行ってきます」とカブで急行。ATMの裏側でちょちょいのちょいと直して、お客さんに謝る。そんなのが毎日であった。
そこでのぶは考えた。ATMは外部からのセキュリティーが万全だ、冷房も効いてる。ここを使わない手はないと思った。ちょちょいのちょいと直し、30分ほど読書(勉強)をして、帰ったら「紙幣がばらばらにジャムり、直すのにひと苦労しましたー」と報告する。こんなさぼりかたは序の口なのである。
2年目ともなると、さぼるのは堂に入ったものであった。上司から、「◎◎さんちなら一息ついていいよ~」と言われるようになった。地元の饅頭屋さんである。しかし言われる前からとっくに出入りしていたのである。
早い話が、饅頭屋さんだから、紅白饅頭や葬式饅頭の注文が来る。冠婚葬祭も情報を得るには格好の場所なのである。もちろん、朝1回、夕方1回訪問させていただき、ぶらぶらしていた。たまに内勤の補助に回っていたりすると、「のぶちゃん今日は来ないの~お昼でも食べにきなよー」と電話が来たものであった。
秋になり、ライバル金融機関の担当(同い年)と一緒になって野球の日本シリーズを見ながら、「お互い仕事で競争するのはやめようよ」と協定を結んだりした。
初めの清水には、訪問先に海洋博物館もあって巨大水槽の前で、アジやカツオが回遊するのをぼーっと眺め自問自答していた。このままでいいのかなーと。
さら3年目の転勤先の熱海には訪問先に美術館もあった。毎日、簡単な集金をしに行った(基本的には内勤)。入館証を手に入れて、「国宝の壺」、「国宝の屏風」、「金の茶室」など鑑賞し、「これが仁清の壺か~」、「光琳の屏風か~」と。
この頃から、不動産鑑定士の勉強を始めたのであった。もちろん勉強場所は通勤電車のなかとATMの裏側であった。退職を目論み日々計画を練っていたのであった。
【☆新しいお客さんへ】
「のぶ」本来の姿を理解するためには、昨年の2~4月頃のブログを是非とも読んでいただきたい。この時期、入院日記、家族のことなども書いている。今年の記述を読むのと並行的に昨年の3月分を読んでくださると、心理的な変化・行動の変化も読み取れるかもしれません。よろしくお願いします。(既存のお客さんもどうぞ) 亭主敬白
http://nobublog.cocolog-wbs.com/blog/2007/03/index.html
(雑記にオチなし、つづく)

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みなさん、たのんまっせー by 清水ののぶ
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